令和7年度【第4回特別公演 あさきた神楽公演】あさひが丘神楽団・宮崎神楽団


昭和62年に発足したあさひが丘神楽団は、「振興団地の中に郷土芸能を」とういう取り組みの
一環としてスタートしました。
古き伝統の旧舞、新しい時代の新舞を伝承し、神楽奉納を通して神楽に息づく思いを後世へと
伝えていけるよう、精進してまいります。


人皇十二代の帝、景行天皇の第二皇子、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)は、
父天皇の勅命を蒙(たまわ)り、熊襲(くまそ)の頭、兄建(えたける)征伐のため、
西国は襲国(そのくに)へ下ります。
命が襲国に到着し、兄建の館をうかがった所、館の新築祝いの宴会を催していました。
命は、叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)から授かった衣を持って女に姿を変え、
館へと忍びこみます。
兄建は、命に酌をさせます。その夜、命は兄建に切りかかります。
激しい戦いの末、兄建の弟である弟建(おとたける)は、その死の間際「これより我が名を
一字取り、日本武尊と名乗られよ」と言い絶命します。

平安時代の終り、望まざる境遇により、悲運の帝となった崇徳上皇が決起し、摂関家、
平家、源氏、親子、兄弟、叔父甥、骨肉相食む大戦「保元の乱」が終結し、
平清盛は、破格の恩賞を被り、光り輝く日輪の道の入口へと立ちます。
かたや敵となったとはいえ、実の父親をその手に掛けて、親殺しの汚名を被ってまでも
忠勤を尽くした源義朝は、その処遇の軽さに憤りを禁じ得ず、不満をつのらせます。
その心の揺らぎを見逃さず、忍び寄る影がありました。中納言藤原信頼です。
「ご無念如何ばかりならんや、御身の心中察して余りある。
御身こそが、この日の本武門の棟梁ぞ・・・」
闇に飲み込まれた源義朝は、激しき潮流の如く一気に流れを加速させます。
平家が一門を上げて、熊野参詣に向かい、都が軍事空白となった隙を見逃さず、決起、
御所を制圧し、朝堂の全てを握る事に成功します。
しかし、熊野権現の加護を被り、熊野路を駆け上がる清盛は、計略を以て帝を救出し、
官軍の御旗を押し立て、源義朝達を追い詰めます。
形勢不利を知った信頼は、見苦しくうろたえ、その浅ましさに義朝は、信頼を見限り、
東国へと落ち延びます。
取り残された信頼は、捕らえられましたが見苦しく取り乱し、
取り押えられながら首を斬られたといいます。
清盛は、朝堂の乱れこそ、亡国の始まりであると考え、自らの一門と共に一枚岩とまとめ
強国とさしめんと心に祈念するのでありました。



大正三年に宮崎神楽団の前進である「日進神楽団(にっしんかぐらだん)」として発足。
途中改名もありましたが、昭和三十四年に「宮崎神楽団」と改名、現在に至っております。
新舞いが中心で高田舞いを伝承しております。
主な活動は各地域の四季のお祭りでの奉納や各種イベントへの出演等をしております。
まだまだ未熟ではございますが、「神楽らしい神楽」を目指し後継者の育成と伝承に邁進したい
と思っております。
皆様方の暖かいご声援をお願い致します。

第十四代仲哀天皇の時代、異国から日本の国の征伐を企てた数万の軍が攻め入って来たのです。
その指揮を執る大将軍は塵倫と名乗り、身に翼をつけ黒雲に乗り、天空を自由自在に飛び行き
国々、村々を荒らし回って多くの人民を滅ぼしていたのです。
そこで、仲哀天皇は従者を従え、自ら天照大御神のご神徳と弓矢の威徳をもって、大悪鬼塵倫に
立ち向かうと言う物語です。